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「古典の日宣言」から10年を迎えるにあたって --古文など古典教育のあり方を議論すべき--

 

 

 

「古典の日宣言」から10年、「古典の日に関する法律」制定から6年

 

 今年の11月1日で、「古典の日宣言」が行われてから10年を迎える。平成20年11月1日、国立京都国際会館で、天皇・皇后両陛下のご臨席の下、源氏物語千年紀記念式典が開催された。ここで「古典の日宣言」が行われている。


 ちょうど1000年前のこの日、一条天皇と藤原道長の長女である中宮彰子との間に生まれた敦成(あつひら)親王の誕生から50日目のお祝いの儀式が行われた。敦成親王は、のちに後一条天皇となる人物である。

 

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 中宮彰子の女房として仕えていた紫式部はその時の記録をまとめている。この記録は『紫式部日記』として称されている。左衛門督・藤原公任(ふじわらのきんとう)が紫式部の姿を見つけて、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」と声をかけた。

 

 「ちょっといいですか、このあたりに、若紫さんはいませんか」と源氏物語の登場人物や巻名となっている若紫のことをとりあげ、作者である紫式部をからかっている。
紫式部は応答をしていないが、「光源氏に似た人もいらっしゃらないのに、どうして若紫がこのあたりにおいでになるのでしょうか」と心の中で思ったことを書き留めている。

 

 寛弘5年12月1日(現在の暦では1008年11月1日)のことであり、『源氏物語』について初めて公式に記述された日であり、このことをもって11月1日を「古典の日」とする根拠となっている。


 「古典の日に関する法律案」が衆議院の文部科学委員会において、委員会提出の法律案とすることが決せられ、衆議院文部科学委員長の提案として「古典の日に関する法律案」が提出され、平成24年8月29日に成立している。衆参ともに全会一致の採決だった。


 この法律は、古典が、我が国の文化において重要な位置を占め、優れた価値を有していることに鑑み、古典の日を設けること等により、様々な場において、国民が古典に親しむことを促し、その心のよりどころとして古典を広く根づかせ、もって心豊かな国民生活及び文化的で活力ある社会の実現に寄与することを目的としており、11月1日を「古典の日」とすることを規定している。ただ「古典の日」は祝日とはならなかった。

 

 

源氏物語が持つはかり知れない魅力

 

 「古典の日に関する法律」が「この法律において『古典』とは、文学、音楽、美術、演劇、伝統芸能、演芸、生活文化その他の文化芸術、学術又は思想の分野における古来の文化的所産であって、我が国において創造され、又は継承され、国民に多くの恵沢をもたらすものとして、優れた価値を有すると認められるに至ったものをいう」と規定しているように、『源氏物語』、そして古典文学ばかりが古典ではない。


 そうは言っても、『源氏物語』は単に「恋愛小説」という範疇でのみ語るわけにはいかないものであり、日本の自然や文化の素晴らしさを伝え、現代人も共感できる人々の喜怒哀楽、人生や社会の不条理などに関するきめ細かな記述もあり、はかり知れない魅力を持っている。


 時代は紫式部が執筆していた時期から100年くらい前が舞台になっている。帝に関わるきわどい話も多いので、その時代の設定というのは無理だったろう。ただ、一条天皇も喜んで読んでいたというから、おおらかな環境の中で、紫式部は執筆していたのだろう。

 

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 楽器としては、「琴(きん)」「和琴」「筝(そう)」「琵琶」がよく出てくるが、源氏も弾いていた琴は既に廃れていたようだ。『源氏物語』を読んでいると、音楽、絵画、香り、建物、着物など贅沢を尽くした平安貴族のきらびやかな文化を味わうことができる。


 但し、衣食住のうちの「食」については、記述が少ないし、寧ろみすぼらしい印象を受ける。奈良時代に比べて、平安時代になると食べ物にタブーが多く、栄養のバランスの悪い不健康な食事になりがちで、あの平安美人というのは栄養失調で顔がむくんでいるだけだということもよく聞く。


 京都という土地柄もあるのだろうか、川魚についての記述はあったと思うが、日本の豊かな海産物を食べるという機会はほとんどなかっただろう。だから、源氏が須磨へと退き、明石へと移った時は、さぞや海や海産物に驚いたことだろう。須磨では、「海人ども漁りして、貝つ物持て参れるを、召し出でて御覧ず」という記述があるが、海で漁をする仕事があることも源氏は初めて知ったのだろう。

 

 

1000年前の女性の天才ぶりには驚愕

 

 さて、『源氏物語』は昔から今日に至るまで、さらには外国語にも訳されて、時代と場所を問わず、国内外の人々に愛読されてきた。


 ここで思い出すのは、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)による『更級日記』の一場面である。この日記は、50歳を過ぎてから書かれた回想録である。父親の仕事の関係で上総(現在の千葉県)に暮らしていたが、著者が13歳の時に家族は京都に移る。


 それから程なくして、親戚のおばさんから源氏物語全巻を譲ってもらうのだが、その喜びようは半端なものではなく、「源氏の五十余巻、櫃に入りながら、在中将・とほぎみ・せり河・しらら・あさうづなどいふ物語ども、ひと袋取り入れて、得て帰る心地のうれしさぞいみじきや」と記されている。今でいう中学生くらいの女の子が歓喜している、いじらしい様子が伝わってくる。

 

 日本文学の研究者ドナルド・キーンは二つの意味で日本文学は女性的であるとして、「一つは、『源氏物語』、『枕草子』を初め、日本文学の最高傑作は女性によって書かれたという意味であり、もう一つは、男性が詠んだ和歌でも女性的な感じの作品が多いという意味であった」(ドナルド・キーン著、『日本文学を読む』、新潮選書、1983年)と述べている。


 これをもってして、日本は1000年も前から「女性活躍」が当たり前だったなどと短絡的に言うつもりはないが、それにしても、紫式部といい、清少納言といい、その天才的ともいえる創作活動にはびっくりさせられる。

 

 「古典の日」にちなんで、あちこちでイベントが開かれているようだが、やはり京都が中心らしい。源氏物語の舞台でもあり、長いこと日本の都となっていた京都が中心となるのは理解できる。源氏物語に関するイベントが首都圏ではあまりないのはちょっと寂しいところだ。

 

 

文法学習や解釈ばかりではもったいない

 

 ところが、高校生や受験生の立場に立ってみると、古文などの古典学習は魅力のあるものではない。ただでさえ履修すべき科目が多い上に、古文までとなると負担が増える。全体から見た配点はそんなに高くないということもあるが、どうやって取り組んだら点数が伸びるのかと迷いながら勉強している人がほとんどだろう。英語はきっちり勉強すると、いろんな英文が理解できるようになるが、古文の場合は、必ずしもそうならないことがほとんどではないか。


 「古文を教えています」と自己紹介すると、「『れるられる』とかやってる人ね」と言われたり、高校生の間でも「あたし、古典捨てたー」みたいなセリフがよく語られていて、古文の先生ががっくりすることが多いという話が聞こえてくる。

 

 源氏物語などをはじめ素晴らしい古典文学が多いにもかかわれず、活用などの文法や解釈の学習ばかりに追われるとなると、その魅力を味わっている余裕などもなくて当然と言えるだろう。大変もったいない話である。


 はっきりした方向性を示すことは難しいが、文法などの学習のあり方は別として、子どもや生徒たちが古典文学に慣れ親しむという機会は社会全体でしっかり作っていくべきではないだろうか。勿論、文学、音楽、美術、演劇、伝統芸能、演芸、生活文化などを含めて、広い意味での日本の古典に国内外の人がもっと親しめるような環境を整備していくことが求められる。