霞が関から見た永田町

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新元号「令和」を期に新しい社会の創造を

 

 

 

新元号「令和」が発表されて以来、テレビを中心に「平成」を振り返る番組が増えている。平成という時代は明治維新以降、はじめて戦争を経験しない時代だった一方で、昭和の残滓が色濃く影響した時代でもあった。

 

言い換えれば、平成は昭和の時代に構築された様々な社会システムが制度疲労していく様を傍観する時代だったと言っていいだろう。それは政治、経済、教育システムとあらゆる分野に及んだ。ざっと平成の歴史を振り返ってみよう。

 

 

平成は世界の権力構造の変化への対応の時代だった

 

まず、世界との関わりでいえば、1989年(平成元年)にベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一された。その翌年の1990年(平成2年)には湾岸戦争が勃発、日本は憲法との整合性に苦労しながらも戦後初の、自衛隊海外派遣に踏み切ったが、クウェートのthanks listに日本の名前は載らなかった。1991年にはソ連が崩壊し、第二次世界大戦以降、続いた東西冷戦構造が終焉を迎え、国際的には新しい秩序と経済が台頭し始めたのが平成初期だった。

 

一方、日本国内の目を向けと阪神淡路大震災、オウムによる地下鉄サリンテロ事件など、自然災害に加えて、宗教法人によるテロという予想もつかない事件が発生したのも平成だった。平成も半ばに差しかかる2000年代初頭には就職超氷河期が訪れ、この時代の就職率は60%を切り、今からは想像もつかないほどだ。あれから20年弱が経過し、この就職氷河期世代が正規雇用されなかったことが、その後のロスジェネ、非正規問題の根源となり、今なお、大きな社会課題として横たわっている。終身雇用制度という昭和の残滓がこうした社会問題を引き起こしたと言っていいだろう。

 

平成の改元は昭和天皇の御崩御によるものだったが、今回の令和への改元は平成天皇のご意思によるものだった。そのためか、平成への改元のときと異なり、令和への改元は社会も明るく、前向きに受け止めているように感じる。

 

 

不思議な明るさを伴う「令和」への改元

 

昭和天皇の御崩御による改元は図らずも、その契機となったことと同様、平成は苦労の連続だった。一方、今回の改元は不思議なことに明るさがつきまとう。日本は今、目の前に少子化、高齢化、人口減少社会、積み上がる政府債務と地方自治体債務と課題が山積しているが、そういう状況の中で、この改元の明るさはなんだろう?これから始まる令和の時代の先行きを象徴している気がしてならない。

 

みんなが一つの共通の価値観の下で、共通の豊かさを求める時代は平成で終わりを告げた。これからは多様性の下に、それぞれの豊かさを実現していく時代だ。そこで果たしていく政治の役割は大きい。

 

 

政治に求められる時代を見通す力

 

残念ながら、現状では政治が最もイノベーションから遠いところにあり、未だに昭和の残滓の中で生きているのが永田町の世界だ。特に野党、なかんずく立憲民主党のなんでも反対路線は旧社会党を見ているかのようでもある。平成に入って始まった二大政党制を指向した小選挙区制度は未だ道半ばだ。令和の時代を展望しつつ、外交や通貨政策は共通しつつも、内政で政策を戦わせる、二大政党制が早く日本に根付いてほしいものだ。そのためには、野党が何でも反対の姿勢のままではダメだろう。改元を契機に、新しい時代の、新しい社会のビジョンを今こそ、与野党ともに示し、選択肢を有権者に見せてほしい。