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財務省セクハラ問題にみる、女性の働き方

 

 

 

とある自治体で聞いた話である。「それだから女は、って舐められるのよ。私たちはそういう時代を乗り越えてきたんだから、あなたたちもやれるわ!」。

 

企業にも自治体にも、立派なキャリアを重ねて、意思決定できるポジションにまで上り詰めた女性が、まだ数は少ないが存在する。紛れもなく、彼女たちが今の女性の働き方を作ってきたリーダーである。

 

 

女性を下に見る時代を生きてきた男たち


男女雇用機会均等法が制定されたのが1985年。それ以前は女性総合職など存在せず、就職して女性の仕事といえば、お茶汲みと灰皿の掃除。職場で働く男性のタバコが切れれば、買いに走り、時には「俺がいつも吸っているタバコを見てないのかよ」と理不尽な叱責がきても、平身低頭「すみません」と謝ってやり過ごす。「いつの時代の話?」と思う人もいるかもしれないが、男女雇用機会均等法が制定された時代はそんな時代だった。

 

いつの時代もルールが変わったからといって、世の中がガラッと変わるわけではない。ルールの運用を通じて、少しずつ世の中は変わるものである。特に女性の働き方の変化はゆっくりだった。だからだろう、冒頭の発言に繋がるのかもしれない。

 

「私たちはそういう厳しい時代を切り開いてきた」という自負が上の世代の女性の意識として少なからず存在する。彼女たちから見れば、働き方だけでなく、保育園の問題も学校給食の問題も、「私たちの時代はそんな恵まれた環境は整っていなかったし、その中で私たちは仕事もして、主婦もして、全部こなしてきた」と思うのも不思議ではない。

 

ましてや、男性の意識はもっと古い。今の40代は就職氷河期を経ているだけに、夫婦共働きは当たり前で、夫婦で家事を分担するのも当たり前の世代だが、そこから上の世代はまだ感覚が古いままの人が多いのが現実だ。特に企業や省庁における役員クラス世代、50代後半から60代、70代前半の、この世代が女性の働き方、生き方に対して、正しい理解と認識を持っているかというと、甚だ疑問である。

 

 

人権意識の薄い日本


そういう中で起きた、今回の財務省事務次官によるセクハラ問題。この手の問題が起きると決まって出てくる声が「そうはいっても、女性の方にも問題があったのではないか」。

 

こういう声が出てくること自体、日本が世界標準から格段に遅れている証左である。今回の財務省セクハラ問題の根っこは深い。聞けば、彼のセクハラ発言は周知の事実で、今回の報道に驚く人は少ない。これは言い方を変えれば、彼のセクハラ発言を咎める人はいなかったし、そういう環境に記者を置くことにメディア側も違和感を覚えていなかったということになる。「女性記者はそうやって、ネタを取ってくるもの」という意識が強かったのだろう。

 

少子高齢化が日本の未来に大きな影を落とす、と言われ始めて、だいぶ経つ。しかし、その割には心から女性へ寄り添っている企業や組織、人は存在するだろうか。少子化は解消したいけど、女性には母親の役割も、働く役割も、そして時として女性っぽさもすべてを求めているのが今の世の中ではないだろうか。

 

 

麻生財務大臣の本音


明らかに女性に多くを望み過ぎだ。これでは女性が疲れてしまうのも無理もない話だ。今回の財務省セクハラ事件を受けて、麻生財務大臣は自民党の政治資金パーティーでこんな発言をしている。「そんな発言されて嫌なら、その場から去って帰ればいいだろ。財務省担当はみんな男にすればいい。触ってないならいいじゃないか」。

 

言語道断だ。自民党の政治資金パーティーという、身内の会合で出た発言なだけに、麻生大臣の本音と言っていいだろう。何より、こういう発言が飛び出る場の空気というのもある。つまり、これが少なくとも与党・自民党の体質なのだ。

 

 

発信し続けられる日本の意識の低さ


そういえば、振り返れば、2014年、東京都議会では塩村あやか都議(当時)に対する、セクハラやじが大きく世論を動かした。塩村氏の不妊治療に対する質疑の最中、与党・自民党から「やる気があればできる」「自分が産んでから」など、耳を疑うようなヤジが飛んだ。

 

日本は一体いつまで、こんなことを繰り返すのだろうか。米国務省が世界の200カ国・地域を対象にした2017年の「人権報告書」がさきほど発表された。報告書では、女性の3割がセクハラ被害を訴えていること、女性の平均年収が男性の73%に止まっていることなどが報告されている。

 

日本におけるセクハラのイメージと、世界標準は相当、かい離している。例えば、コンビニの店長がアルバイトの女性の肩をポンポンと叩くことも世界から見れば、十分、セクハラに当たる。お尻ではなく、肩でも。しかし、残念ながら日本人の男性にその感覚はまだ希薄だ。女性は嫌がっていても声を上げられない。声を上げないから「嫌がっていない」と思っているのが日本の男性社会なのである。

 

 

自民党には変えられない


古い、男社会で形成されている自民党にこの体質を変える力はないだろう。そうなると、頼りになるのは野党だ。だからこそ、「#MeToo」とやっている場合ではないのである。

 

今、野党に求められていることはパフォーマンスではなく、真に女性に寄り添った世論の形成と社会の構築だ。野党は旧社会党の流れを汲んでいることもあり、ジェンダー論の色合いが濃くなりがちだ。でも、それでは世論は広がらないだろう。男対女ではなく、「嫌なことはやらない」というシンプルな原則を守るだけで、世の中はぐっとストレスがなくなるはずだ。セクハラ問題もなくなるだろう。

 

このテーマは自民党が手をつけられない、というよりも感覚的に彼らが理解し得ないテーマだ。だからこそ、野党には大いにチャンスである。パフォーマンスに走ることなく、新しい社会の価値を創造してほしい。