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【衆議院選挙2017】非自民連立政権よ再び 今後の希望の党と立憲民主党に注目である

 

 こんなにも記憶に残る選挙も珍しいのではないか。12年前の郵政選挙の時以来だろう。強烈な解散風が吹く中、9月25日、東京都知事である小池百合子氏は新党「希望の党」結成と代表就任を発表した。臨時国会が開かれた9月28日、民進党は両院議員総会が開かれ、希望の党への事実上の合流が協議され、これが了承された。この時、民進党の国会議員には「これで政権交代だ」という高揚感すら漂っていたとされる。

 

政権交代の高揚感が漂っていた理由

9月28日に民進党の議員に政権交代の高揚感が漂っていても不思議ではない。わずか2ヶ月前の東京都議会選挙で小池氏が率いる都民ファーストが東京を制圧していたからだ。中でも町田市では選挙のわずか2週間前に公認が決まった候補者が5万6000票近い得票でトップ当選、それも圧勝だった。テレビも新聞も、メディアはこぞって、「次は国政進出か」と期待を寄せ、新党ができないうちから、小池新党に対する期待の高さが世論調査の結果に表れていた。

 

自民党政権が臨時国会冒頭に解散を決めたのは、自民党にとって絶好の環境が整っていたからだ。国会が開かれれば、森友問題・加計問題がまた蒸し返されること、その説明に終われる姿が連日テレビに流れれば、内閣支持率もさらに下がる恐れがあること、民進党は前原新体制が発足する際に幹事長候補だった山尾志桜里氏の不倫疑惑によってスタートにつまづいてしまったこと、そして何より最大の懸念だった小池新党が立ち上がっていないこと。この間隙を突いて選挙に持ち込めば、自民党は大きく票を減らすことはない、そういう判断だった。

 

前回の総選挙で自民党は勝ち過ぎてしまったがゆえに、どんなにいい状況で選挙を戦っても、次の選挙は議席はどうしても減ってしまう。どうせ減るのであれば、ダメージがなるべく小さくしたいと考えるのは自然なことである。したがって、今回の臨時国会冒頭の解散は安倍首相にとっては合理的な判断であった。

 

 

日本新党を彷彿とする希望の党の進出

一つ誤算があったとすれば、小池新党が思いもよらないスピードで立ち上がったことだ。新党結成の記者会見も見事だった。細野豪志氏と若狭勝氏が進めてきた新党構想を「リセット」し、小池氏が自らのリーダーシップで新党を立ち上げると発表したことで、決断が早く、結果を出せるリーダーという印象を前面に出すことに成功した。

 

あの時点ではメディアもこぞって、小池新党への期待を連日報道していた。9月25日の希望の党の記者発表を受けて、自民党の中で「今からでも解散を踏みとどまれないか」という声が挙がったという。

 

それは無理もない話だ。わずか3ヶ月前に、自民党は東京で大惨敗しているのだから。かつての日本新党ブームが頭をよぎったことだろう。1993年、日本新党は6月の東京都議会選挙で22人の公認候補を擁立、そのうち20人が当選し、推薦も含めれば、都議会で27人の勢力となり、第3会派に躍り出た。そして、そのわずか1ヶ月後の総選挙。日本新党は57人の候補を擁立し、35人が当選した。都議選の風がそのまま国政選挙に影響した選挙だった。この時、当選したのが前原誠司氏、枝野幸男氏、野田佳彦氏、小池百合子氏、河村たかし氏など、のちのリーダーとなる候補者だった。

 

あの時、自民党は下野した。1993年の日本新党が躍進した選挙で、非自民・非共産党連立政権が樹立し、内閣総理大臣に日本新党代表の細川護煕氏が就任した。長く権力の座にある自民党にとって、1993年の細川政権と、2009年の民主党の政権交代は絶対に忘れることもできない出来事であろう。よって、今回の希望の党の結成は二十数年前の記憶を呼び起こすには十分過ぎるほど、状況が相似していた。デジャブといってもいいだろう。「今からでも解散を踏みとどまれないか」という声が自民党の上層部から挙がったのは無理もない。

 

 

進むも地獄、退くも地獄の自民党

いったん、吹いた解散風は止まらないのには、ワケがある。ひとたび風が吹けば、現職をはじめとして候補者はポスターをはじめとする広報物の印刷の発注をかけ、事務所を手配し、スタッフを手配する。お金が発生しているため、止まるに止まれないのである。もし、急ブレーキを踏んで解散風を止めようものなら、一気に安倍首相の党内求心力は低下する。

 

進むも地獄、退くも地獄なら、定石に従うよりない。9月28日の前後の安倍総理の心中は察するに余りある。生きた心地がしなかっただろう。現に安倍総理は記者会見で「自公で過半数」を選挙の勝敗のラインに引いた。それくらい、危機感があったということだ。

 

 

希望の党の停滞と立憲民主党の躍進

一方で風の怖さをまさざまと見せつけられたのも、今回の選挙の特徴だ。民進党から希望の党への合流に対して、小池代表が「排除します」と記者に答えたシーンが連日、テレビで流された。言葉の持つ厳しさと、小池代表の表情のギャップがあまりに大きく、日本特有の判官贔屓も手伝って、希望の党は支持率を落とすことになってしまった。

 

逆に日増しに風を受けて予想議席を増やしていったのが枝野幸男氏の率いる立憲民主党だった。結党の記者会見はたった一人。「官房長官まで務めた政治家が泡沫政党の代表になるのは忍びない」という声が永田町の中で挙がったという報道もあったほどだった。

 

現実はそうならなかった。立憲民主党はこの選挙で大躍進した。ただ、ここで注意が必要だ。立憲民主党の大躍進は必ずしも政策が評価されてのことではない。あくまで風である。その風の正体は、「筋を通した」ことへの評価である。小池代表が示した憲法改正と安保法制に対する踏み絵を踏まなかったということに対して、筋を通したという風である。

 

 

立憲民主党議員の今後に注目 筋を通したのか?

ここをよく考えなければいけないポイントだ。立憲民主党から立候補した人も9月28日の時点では民進党の両院議員総会で一旦は希望の党への合流を了承しているのだ。しかも、あの時は高揚感さえ漂っていた。

 

希望の党が踏み絵を迫ったことで公認を得られる見込みがないから、ある意味、仕方なく受け皿として結党したのが立憲民主党だった。つまり、ことほどさように世間は空気に弱い。醸成された空気が勝手に自己増殖して、流れを作り出したのが今回の選挙だった。

 

別にこれは立憲民主党を貶めているわけでない。むしろ、これからの立憲民主党の動きは重要だ。選挙で約束したことを本当に守れるのか。例えば、希望の党の候補者の中には選挙中に、「憲法改悪に反対」と主張をした人もいた。候補者に立場になれば、9月28日のあの時点では色々なものを飲み込んで希望の党へ行くしか選択肢がなかったのだということになる。

 

その思いはわからなくもない。分からなくもないが、世間はそうは受け取らない。枝野代表は「立憲民主党は排除しない」と言っていたが、仮に希望の党の議員を受け入れるようなことがあれば、あっという間に、今回の選挙で吹いた風は止んでしまうだろう。止むどころが、「選挙の時にパッケージを変えただけで、結局、民進党の議員が生き残るための手段だったのか」と世間は批判するだろう。

 

希望の党を選んだ者、立憲民主党を選んだ者、無所属を選んだ者、9月28日以降、政界は日々、めまぐるしく動いた。目の前に選挙が迫る中、ギリギリまで政党が決まらない者、選挙区が決まらない者、まさに悲喜こもごもで候補者にとっては心臓がキリキリする毎日だっただろう。

 

 

旧民主党出身者は呪縛から解き放たれた

有権者から見れば、今回の結果は決して悪いものではない。今まで民進党の支持率が一向に上がらなかったのは、2009年から担った政権運営に対する批判が自民党の広報戦略と相まって、未だに続いていたからにほかならない。

 

そろそろ、その呪縛から解き放たれてもいいころだ。今回の選挙はその大きな契機となるだろう。希望の党と、立憲民主党に別れたことで、民進党はなかなか一つにまとまれないと言われていた部分も相当スッキリした。希望の党も立憲民主党もそれぞれの道を歩めばいいのだ。

 

希望の党にとっては今回の選挙は厳しい船出となった。下を向く必要はまったくない。たまたま、今回、風を掴み損ねただけの話だ。少なくとも9月25日からの1週間は希望の党が打ち出した改革の姿勢に世間は期待をした。だから、その改革の姿勢をこれから政策として落とし込んで、有権者に訴えていくことで、もう一度、期待を集められる時がくるだろうと思う。

 

東の希望の党、西の日本維新の会という住み分けも本当に素晴らしい戦略だった。あの住み分けはかつて、みんなの党と大阪維新の会がやろうとしても最後、決裂してできなかった構図だ。

 

1993年、当時はまだ小選挙区制度ではなかったため、一概に比較はできないことを前提にあえて言えば、日本もヨーロッパのように、多党制による、ゆるやかな連立政権という方向に進むのかもしれない。

 

 

希望の党と立憲民主党どちらが信頼を勝ち得るのか注目

かつても、みんなの党の渡辺代表は「政党ブロック構想」を掲げた。二大政党制論者であり、かつ渡辺代表と党内政局を繰り広げていた江田憲司幹事長(当時)とはまったく相容れない考え方で、江田氏の言葉を借りれば、「政党ブロックという名の、自民党へのすり寄りだ」ということだった。

 

渡辺氏と江田氏と、どちらが時代の先を読んでいたのか、それはまだ分からない。答えはこれから出てくるのだろう。20年余に渡って同じ笠の下にいた政治家が希望の党と、立憲民主党に別れた。お互いを批判するのではなく、それぞれの信じる政策を堂々と有権者に語り続けることによって、両党が信頼を得ていくのだろうと信じている。