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歴代在職日数最長を射程に捉えた安倍首相、際立つ軽さ

 

 

 

最年少首相就任者という共通点

 

私鉄の券売機で預金をおろせるようになったというニュースから、2000円札というのは果たしてどこへ行ったのかが雑談の話題になった。西暦2000年に合わせて華々しくスポットライトを浴びた2000円札も、お目にかからなくなってから久しい。

 

お札の顔といえば聖徳太子と答える人もいれば、福沢諭吉のほうが馴染み深い人もいる。新渡戸稲造と言われてもピンとこない若者も多いだろうが、一方で初代総理大臣伊藤博文の名前を挙げる人も少なくないのではないか。

 

安倍晋三首相は、6月6日に歴代総理大臣の通算在職日数が2720日で歴代3位となり、初代首相の伊藤博文に並んだ。翌7日には単独3位となった。連続在職日数では、すでに歴代2位を更新中であり、6日で2355日となっている。通算在職日数の第2位は2798日の佐藤栄作(連続日数1位2798日)、第1位は2886日で桂太郎が控える。

 

このまま政権が続けば11月には桂を上回り歴代最長となる見込み。伊藤博文も含めて、4位まですべての首相が山口県(かつての長州藩)出身というからこれもなにかの縁であろうか。日本で総理大臣を務めたのは現在までに62人。計97代の内閣が組織された。安倍首相は57人目の首相となる。

 

伊藤は44歳で初代総理大臣を務め、都合4度の内閣を組織し、最後に首相の座についたのは59歳のときであった。一方、現行憲法下で最も若く首相の椅子についたのが奇しくも安倍首相である。

 

 

「首相」にこそ政策論議に挑む気概がほしい


歴史的評価は専門家に譲るとして、伊藤は「遊び人」だったとも、明治天皇から厚い信頼を寄せられた人物だったとも伝えられている。ほかにも組閣に苦悶した記録が残されているなど、伊藤が語られる行間からは、幕末から明治への時代の転換期を生き抜いた男ならではの人間臭さが漂う。

 

明治維新後の新政府の時代と日本国憲法下における違いはあれど、一国の首相としてその重責を担うことは決して軽いものではないだろう。しかし、その職責の重みを十分に受け止め、真に国民に信頼されてこその首相であるはずだ。

 

予算委員会が長く開催されず、野党は追及の場を求めて苛立ちをつのらせている。金融庁が公表した老後資金に2000万円が必要とする報告書の問題や相次ぐ高齢者による自動車事故の問題など、緊急に議論を要する課題も少なくない。

 

首相という重責を担う人物には、広く国民に開かれた議論の場を通じて、政府の考えを示し、政府の舵取り役としての役割を果たしてもらいたいと願う国民は多いに違いない。

 

すでに参院選に向けて全国で選挙ムードも漂いはじめたというものの、国会会期中にさらに活発な議論を交わし、政策という刀でつばぜり合いをする各党党首の姿が見たいものである。

 

 

在職日数よりも国民の期待に応えることこそ重要


伊藤は若くして海外経験を積み語学力を身につけたことで、外国政府との交渉の場で大いにその存在感を示し、明治新政府内で力をつけていったという。当時では数少ない海外経験者であったため、政府が派遣した岩倉使節団でも大久保利通や木戸孝允などと並んで副使として加わり、その語学力を発揮している。初代首相を務めた後には、初代枢密院議長、初代貴族院議長なども歴任し、伊藤の名は明治史にしっかりとその名は刻まれた。

 

岩倉使節団の随行員の中には、後に女子高等教育の近代化に貢献することとなる津田梅子の姿があった。渡米当時は6歳と幼かったが、後に伊藤と再会してから親交があったという。津田といえば、このほど新たに五千円紙幣の肖像として描かれることになった人物である。

 

明治の黎明期に幾多の荒波を乗り越え、紙幣の肖像にもなった政治家・伊藤と日本近代の女子教育の草分けと評される津田の二人に、歴代最長をほぼ手中におさめた令和の宰相の姿は果たしてどのように映っているだろうか。

 

英語を自在に操った伊藤が外交交渉の場で「トラストミー」と言ったかどうかは知らないが、国民の期待を裏切るような首相では困る。在職日数が長短よりも、しっかりと国民の声を行政に反映させられるかどうかこそが、首相が果たすべき役割であるということを忘れてはならない。