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デジタル政府は国家の最小単位の再定義ということを国会議員は理解しているか?

 

 

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いよいよこの秋の国会で審議が始まるとされている「デジタルフェースト法案」。前稿「デジタルファース法案、問われているのは目指す国家像」でも、エストニアを事例に引きつつ、行政のデジタル化で問われるのは国家像であることを示した。さて、本稿では、現在の世界の4つの潮流と、行政のデジタル化の帰結として国家の単位が変わっていく、という話をしたい。

 

 

デジタル政府、世界の4潮流

 

世界におけるデジタル行政には4つの流れがある。1つは前回も触れた「エストニア」。国家と国民に信頼関係が成立していて、「データは国民のもの」という意識も広く共有されている。国家運営もデジタルファースト、国民ファーストとなっており、それは「Once-only」という考え方にもよく表れている。北欧圏と同じ、福祉国家型といってもいいだろう。

 

2つ目は「中国」だ。こちらは国家監視型といってもいいだろう。今や顔認証技術では中国は群を抜いており、米国さえも歯が立たないレベルに達しようとしている。かつては日本のお家芸だったが、この5年であっという間に抜き去られてしまった。


理由はいたって簡単で、中国政府が保有する個人の顔情報を企業に提供したからだ。AIと組み合わせることで、中国の顔認識技術はあっという間に洗練され、今はでコンサート会場で指名手配犯が一瞬で見つかってしまうほどだ。

 

 

対照的なロシアvs米英

 

3つ目は「ロシア」。こちらもやや、中国に似た文脈だが、デジタル情報を国家競争に使おうとする動きだ。有名なのは、大統領選挙でトランプ氏がまさかの指名を得た、あの選挙でロシアはfacebookを使って、大量のなりすましアカウントで世論を誘導した。国家競争といえば、聞こえはいいが、一種の戦争を仕掛けたといってもいいだろう。

 

そして、4つ目が米国や英国に代表される「アクグロサクソン型」だ。データは個人のもので、データを有効活用することで、個人が豊かになる権利を有している、個人が豊かになることで、ひいては都市や国家も豊かになるのだ、という考え方。ここ10年のオープンデータ、オープンガバメントはこのアングロサクソン型の文脈と言っていい。

 

さぁ、こういう大きな潮流がある中で、日本のデジタル化はどこを目指すのか。その哲学こそが重要で、デジタル化によって行政事務が簡素化されるのだ、というのは本来、瑣末とさえ言ってもいい。

 

 

デジタル政府、数百万人が適正規模か

 

もう一つ、重要なことは、行政のデジタル化は国家の最小単位を再定義することにもなっていくだろう、ということだ。エストニアの人口が132万人であることからもわかるように、行政のデジタル化がスケールする人口規模というのがある。おそらく、これが国家の一つの単位になっていくはずだ。

 

今、専門家の間では、この単位が100万〜500万人程度だろう、と言われている。日本を見てもわかるように、単位が大きすぎても、今後は社会が動かないというのだ。

 

それを裏付ける、顕著な動きがあった。それは2年一度、国連経済社会局が発表する電子政府ランキングだ。これまでは当然、国家の単位で順位付けしていたのだが、今年から「city」という項目もできた。つまり、都市レベルで電子政府への対応度合いを評価したのだ。

 

上から、モスクワ(ロシア)、ケープタウン(南アフリカ)、タリン(エストニア)、ロンドン(英国)、パリ(フランス)と続き、日本からは19位に東京がランクインした。多くの国では、国よりも都市の方が上位にランクインした中で、日本は国の方が上位に、都市(地方自治体)の方が下位にランクインするという、逆転現象が見られた。

 

 

テクノロジーが推進する地方分権

 

ここの評価をどう見るか、というのは様々あるかもしれないが、一つ確実に言えることは、デジタル政府が効率よくワークする単位が従来の国家から都市へと移行していくということだ。つまり、デジタルファースト法案の先には、中央集権から地方分権の社会になっていくことになる。立法者がそこまで見通しているかは分からないが、日本が中国やロシアのような国家権力発動型ではないとすれば、エストニアやアングロサクソン型になるわけで、その行き着く先は、都市単位での効率的なデジタル行政ということになるのだ。だからこそ、法案審議にあたって、国会議員が描く、これからの社会像は重要なのだ。